置いてけぼりで、うらめしや。

「うらめしや」と言っている自分がいる。さぁこれをどうするか。

重いのだ、重い。浮上せねば。

置いてけぼりにされるのがそんなに淋しいか。一人になるのがそんなに怖いか。その後悔はなんだ。無いものを在るとし、在ることに怯え、怯えを防ぐことを己に迫る。
それは脅迫だよ、虚言癖。一種の強迫性障害だよ、りえちゃん。
不安や恐れに端を発するものは、不安と恐れしか招かない。怯えへの防衛策がどんなに明るくとも、楽しくとも、着地点は変わらない。

さて、"置いてけぼり" の語源は、本所七不思議にある怪談話を語源にするらしい。とある釣りバカ男が、化け物がでると噂の釣り堀へ。入れ食いでどんどん釣れるものだから「きっとこれは(釣れる堀を秘密にしたいがための)デマに違いない」と意気揚々に大量の魚を持ち帰ろうとすると「置いてけ」と不気味な声。さぁ逃げ帰ると、大量にあったはずの魚は籠から消えていたという、"置いてけ堀"。

囲いたがり、だな。私が囲われることを嫌うのは、自分が他人を囲って離そうとしないからだ。置いてけ=魚をここから持ち出すな。魚はエネルギー(愛やお金)を象徴し、男から見れば驕りや過信、不気味な声から見れば執着やがめつさ、他人の手に渡ることの恐怖を表す。
あさましいのだ、根性が卑しい。その卑しさを隠し通すために 己の正しさを相手に押しつける。これは愛よ、愛は正しいの、だから私は正しいのよ、と愛という権威で己を飾り立てる。
きっと魚たちは、自ら釣られたのだろう。この堀が重く窮屈で仕方ないから、自由を得るために水から上がった=死を選んだのだろう。ほら、「大好きな人と死別することの恐怖」は、大好きな人の死を招く。

囲うことを断つには?→無いものに怯えるな。
怯えることを断つには?→無いものを在るとするな。
無いものを在るとすることを断つには?→他人と自分を切り離しなさい。
他人と自分を切り離すには?→自分を責めるのをやめなさい。
自分を責めるのを断つには?→起きる現実を全て受け入れなさい。
起きる現実を全て受け入れるには?→自分が無力であることを認めなさい。
自分が無力であることを認めるには?→天に全てを委ねなさい。
天に全てを委ねるには?→自分の足の裏全面に全体重をかけ、しっかりと地に足をつけて立ちなさい。 

人事を尽くして天命を待つ、か。
起こることは全て己の思考と完全一致し、今この時が全て完璧なゴールである。現実が完璧で無いと嘆き自分と他者を責めるなら、自分も他者も赦し、今この現実が完璧だと喜べ。失わまい失わまいと囲ってきたその腕をとって、優しく撫でてやれ。囲う必要なんか無いと、大丈夫だと、世界を信じよう。
うらめしいのは私を置いてけぼりにする他人じゃない、淋しさを隠す卑しい自分だ。

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